世良心療内科クリニック

小樽市の心療内科、精神科 世良心療内科クリニック

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コラム

baby step

春よ、来い

朝、居間へおりていくと、母親がすっと目のあたりをこする。
「なに、また泣いてたの?!」
私があきれるので、母は泣いていたことを隠そうとする。
被災地を映すテレビも、あわてて消したらしい。
涙の理由はさまざまだ。
「だって・・・みんな、どんなにか心細いだろうと思ったら切なくて・・・」
「ところがさ、世の中には立派な人がいてね・・・」
「まだまだ、日本人も捨てたもんじゃないのね」
「ねぇ、世界各国がこんなに助けてくれるなんて、初めてじゃない?
このまま、みんな戦争なんてやめて、世界が平和で幸せになったらいいのにね」
気持ちはわかるが、東北の地震以来、一か月以上ずっとこの調子だ。
娘としては、親の具合のほうが気にかかる。
「もう、いいかげん、やめなよ、気にするの。
その年でお母さんがボランティアにかけつけるわけにもいかないんだしさぁ」
すると、母はしばし口をつぐみ、おもむろに言いかえした。
「あのねぇ、あんたたちみたいに、普通に育ってきた人にはわからないんですよ。
経験した者にしかわからないの、こういうことって。
お母さんだって、昔、戦争で何もかも失って食うや食わずで・・・・」

昭和20年。終戦の約半年前の3月10日未明。
東京大空襲のもと、いくつかの防空壕で拒絶されたものの、
どうにか命拾いをした母は、その時14歳。
夜があけ、空襲もおさまって、外へ出てみると、あたりは何もかもが一変していた。
たった一晩で10万人からの人の命を奪った空襲。
昨日まで友達ときゃぁきゃぁ走りまわっていた下町は、ものの見事に焼き払われ
、一面瓦礫と逃げ遅れた人々の黒焦げの遺体が折り重なる焼野原となっていた。
防空壕から這い出てきた人々は、みな呆然とたたずんでいたという。
あまりに変わり果てた光景に、言葉もなく、ただ立ち尽くすしかなかったと。
涙もでなかったと、母は述懐する。
そんな中でも誰かが音頭を取り、生き残った人を取り集め、
空襲を免れた川向こうまで歩いていったそうだ。
今は商船大学がたっている越中島といわれるあたり。
そこの大きな体育館のようなところで、しばらく寝泊りしていた。
それがどれくらいの期間だったか、記憶はないという。
が、やがて、ある日突然、全員、電車に乗せられ、
渋谷のえらい宮様(皇族)のお屋敷につれていかれたそうだ。
緑の繁る広大な屋敷の庭は、静かでまことに整然としており
、ついさっきまでの避難所暮らしとは、まるで別世界だった。
そこで、みんなはひとり500円と、番傘を一本ずつ渡された。
「時代劇にでてくるやつだ」と思ったのを、よく覚えているそうだ。
渋谷からぞろぞろと歩いて宮家に向かう途中、
制服姿の女学生(女子高生)たちとすれ違った。
その時、なかの一人が母のところへ走り寄ってきて、厚手のコートを差し出した。
「あの、よかったら、コレ、着てください」
母の胸におしつけるようにコートを渡すと、女学生はさっと走り去っていった。
14歳の母は、焼け出されたまんまのかっこうで、ぼろぼろだった。
「なんで、あのとき、お母さんのとこにきてくれたのかしらね。
よっぽど哀れに見えたのかしら?」

宮家をでたあと、母たちは行先をつげられぬまま、さらに電車に乗せられた。
いや、行先くらい教えられていたのかもしれないが、
大半の人は、ともあれ命令に従い、あとをついていくしかなかったのだろう。
ついたのは国電・上野駅。
焼け出された人々は、そこで町内ごとに整列させられた。
「では、牡丹町1丁目の住人は新潟県の・・・」
と、えらい人から発表があった。
強制疎開、だ。
縁故のあるなしにかかわらず、一律、1丁目の人間はどこどこ村、
2丁目はどこどこと、お上の決めたとおりに、移動させられるのだ。
引っ越しといっても、家財道具など持ってる人は誰もいない。
みんなが着のみ着のままで、財産は体ひとつ。
それに、支給されたばかりの番傘が一本。
なるほど、と納得がいった。
焼け出された人々の強制疎開先は、新潟だった。
当時、裏日本と呼ばれた北陸地方の3月といえば、
まだ雪が霏々として降りやまぬ厳寒のただなか。
傘は必需品だった。

深夜、すべての列車が発着を終わった終業後の真っ暗な上野駅で、
新潟ゆきの夜行列車は、黙々と列に従う罹災者一行を乗せ、出発した。
まる一昼夜、不安に揺られ、降り立ったのは、見知らぬ土地。
見知らぬ土地では、見知らぬ人々が出迎えていた。
出迎えるといっても、けっして”歓迎”ではない。
ある日突然、政府の命令で、避難民を迎えいれさせられるわけだから。
戦況が厳しさを増すなか、田舎の村々とて日々の暮らしが裕福であるはずもない。
そこへ、いわば厄介者をしょいこむのだ。
母たちが身をよせることになったのは、新発田(しばた)という村だった。
駅前には何人かの住人が牛にひかせた大八車で迎えに出ており、
村長さんかだれかえらい人が、その場で適当に割り振りを決めていった。
町内の人々は、そこで別れの言葉もそこそこに各人の家に引き取られていった。
牛車の荷台に乗せられて、初めて会ったばかりの見ず知らずの他人の家に連れられていく気分は、どんなものだったろうか?

幸い、母たちは、誰かの家の居候になるのではなく、村の集会所をふりあてられた。
母とその両親、そして妹弟の5人。
集会所といっても、四畳半二間だけの粗末な小屋。
ガスも水道もない。
なにせ今から60年も前の、小さな村でのことだ。
それでも、避難所にみんな一緒くたに押しこめられ、息をするにも周囲を気遣うような暮らしから一気に解放された喜びは大きかった。
なにより、夜もまんじりと眠られない空襲の恐怖から逃れられたことは大きかった。
14歳といえば中学生だか、東京にいたころから、満足に学校に通ってはいなかった。
いや、いったん学校へは行くのだが、”勤労奉仕”といって、
全員で近くの工場へ行かされ、お国のために奉仕するのだ。
男子は力仕事。
女子はお湯につけた工事用の電線のビニールをはぐ作業を、
えんえん立ちっぱなしでやらされた。
電線より先に、自分たちの指がふやけ、
ちょっとした擦り傷でも、すぐ皮膚がさけた。
なにか軍事用に再利用するのだろうが、
「こんなみみっちいことをやっていて、ほんとにこの戦争、勝てるんだろうか」
と、中学生の母ですら思ったそうだ。
ともあれ、疎開先でも母はかっこうの労働力だった。
病弱な両親に代わって、村の道の普請や土手ならしだの、
いわゆる土方仕事には、14歳の母が駆り出された。
やがて、働きっぷりが認められてか、
村のそこそこえらいさんの家に雇われることになった。
同い年くらいの男兄弟3人がいる家に、母だけ移り住んで、
その家の手伝いをすることになった。
だが、東京の下町育ちの母は、気の強さでも人一倍だった。
じき、3兄弟の一人とにらみあうことになる。
何かと、反目しあい、よくケンカをしたその少年は、
ある日、母の部屋に侵入、寝ている母の頭を足で蹴った。
「痛っ!何すんのよぉっ!!」
飛び起きた母は、少年にくってかかると、怒り心頭
そのまま、その子の親の部屋にむかった。
「もう、あったまにきた!!!やってらんないっ!こんなうち出てく!!」
夜中にいったいなにごとかとびっくりした親は、
事情を聞くや、息子をどやしつけた。
「ごめんなさいよ。二度とさせないから。今回は大目にみて堪忍してやって」
と、頭をさげたが、母は聞く耳をもたない。
「出ていく!」の一点張りに、相手の親は
「わかったから、せめて朝まで待って。
ちゃんと送っていって、親御さんにも説明を」
と、懇願したのだという。
だが、母はそれをふりきり、明かりひとつないまっ暗闇の田舎の山道を、
ひとりずんずん歩いて、集会所の家までもどった。
10分20分なんて距離じゃなかったという。
狭い田舎のこと、若干14歳の娘が夜中にとびだしていったとなれば
すわ何事か・・・と、噂になるのはまちがいない。
その家は、集落に赤っ恥をかくことになる。
母自身にもいわれない好奇の目がむけられかねないところだが、
ともかくその時は、腹が立って腹が立ってそれどこじゃなかったのだそうだ。
「ジョーダンじゃないっ!ガマンにも限度があるっていうの」
負けず嫌いの母は、今でもその時の話になると、頭から湯気がでる。
「えぇっ。もしかして、その子、お母さんのこと、好きだったんじゃないの?」
「知らないわよ、そんなことっ」
「しかし、よくそうやって自分を押し通すよね」
と、感心すると、母は一言。
「だって、そうしないと、生きてこれなかったもん」

一方、温情にふれることもあった。
その地域の区長さん一家は、なかでも良くしてくれたとか。
「そこの俵、ちゃんとかたづけとけよっ」
もともと母たちの住んでいた小屋は、米の出荷時には倉庫として使われていた。
土間には出荷したあとの、空の米俵が残されていた。
「ちゃんと、よくはたくんだぞ」
区長のとこの奥さんは、そう言い置いて出ていく。
ふんっ、いいようにただ働きさせてっと、腹をたてながらも、
米俵をはたくと、俵の藁のあいだからはパラパラと米粒がこぼれ落ちてきた。
たたけばたたくほど、米粒は落ちてくる。
一俵につき、両手に一山ほどの新米・・・。
そうしてもらったお米が、どんなにありがたかったか。
残りの米が多くなるよう、わざと大雑把に俵をあけていってくれた区長の家は、
大きな田圃をもっており、母はそこで初めての田植えも経験した。
田圃にはいるなり、足をとられ、すっころび、泥だらけになった若い母を見て、
区長一家は大笑いした。
「あれま、都会の娘ッ子はほんとに何もできないだなぁ」

新発田にはどれくらい疎開していたのか。
終戦後しばらく、母のところでは、父親が先に東京に戻り
、元住んでいた土地にほったて小屋を建て、
暮らしのめどがついてから、家族を呼び戻したそうだ。

終戦後。
15,16歳と、母の日々はあいかわらず勉強とは無縁で、
学校はほっぽらかし、もっぱら買い出しに明け暮れしていたそうだ。
物資が極端に不足して、食うや食わずの東京と違って
、まだしも地方にはコメをはじめ農作物があった。
都会の人々はなけなしの着物やお宝を持って、農家へ直接いき
、物々交換で食べるものをわけてもらっていた。
当時は、高価な振袖が二束三文にもならず、文句をいうと、
「あぁ、着物じゃどうせおなかはふくれないしな」
などとバカにされ、悔しい思いをしたが、
それでも相手の言うなりに食料を確保するしかなかった、
というような話もよくきく。

そんな中じゃあ、うちの母は恵まれていたほうだろう。
勝手知ったる新発田まで買い出しに行くと、
例の親切な区長さんのとこの長男坊が、牛車で待っていて、送り迎えしてくれる。
「そこのおばさんが、本当に可愛がってくれてね。お母さんの顔を見ると、
すぐ草餅いっぱいこしらえてくれて。お餅ならつかまっても罪にならないからって」
戦後、米は配給制で政府の統制下にあった。
個人が勝手に売買するのは、ヤミ米といって禁じられていた。
だが、そんな規則、守っていたら、飢え死にだ。
人びとは競ってヤミ米を買うために、米どころをめざした。
新潟にむかう列車は、闇商人たちでいつも満杯だった。
むろん、政府も手をこまねいてはいない。買い出し列車には
しょっちゅう取り締まりが入り、見つかれば即、米は没収、
罰金はもちろんのこと、最悪な場合は牢屋にぶちこまれることもあったという。
それでも、生きていくのに必死な大人たちは列車にのりこむ。
車内はぎゅうぎゅうの寿司づめで足の踏み場もない。そんななかに
年頃の娘だった母も乗っている。
上野駅では取り締まりが強化されていたが、駅員さんが手招きしてくれた。
「こっちから出なさい。つかまんないから」
係官に見つかっても、若い娘とみると、身体検査もおざなりで、
あきらかに隠した米で着ぶくれしているにもかかわらず、
コートを脱がされることはなかったという。
「見逃してくれるのよ、やっぱり、そこは。
役人だって好きで取り締まってるわけじゃないんだから」
こっそり出口を教えてくれた駅員さんには、その後も何度も助けられたという。
「もう時効だから言うけど、同じ切符で2往復させてもらったこともあんのよ。
そんなの、さすがに一回だけだったけど。
いいから、乗んなさいって、検札しないで乗せてくれんの」
母は懐かしそうに駅員さんの名前を口にする。

「お母さんて、そのころ可愛かったの?」
「まっさか。着のみ着のままでぼろぼろだし、顔はすすだらけだし。
髪はわらわらだし。でも、威勢だけはよかったけどね。
要領もいいんだわね、きっと。どっか」
どっかもなにも。
80歳の今も、母は酉の市などで人ごみの中にいくと、
気がつくといつのまにか私よりはるかに前方にいて、
とっくにお参りをすませている。
最初に鳥居をくぐったときには確かに一緒だったのに。
毎回、年の瀬になると同じ事がくりかえされるので、
首をかしげると、かえってきた答えが、コレだ。
「あぅたりまえじゃない。鍛え方がちがうわよ。
だてに、あの戦後のどさくさを生き抜いてきたわけじゃないんだから」
なるほど。
母のたくましさのルーツは、戦後の買い出しにあったのネ。

それから半世紀あまりの歳月がすぎさってーー
古希(70歳)の誕生日を前に、人生をふりかえった母は
、実に数十年ぶりに新発田を訪れることになった。
世話になった区長の奥さんはとうに亡くなっていたが、長男坊は健在で
元気なうちに一目あってかつての御礼をと思い立ったのだ。

その昔,牛車が待っていた駅前には、長男坊の息子が、
かつての長男坊よりずっと大人の年になって、出迎えてくれていた。
初めて会う息子の車で、母は近場の温泉地へ連れて行かれた。
あのかつての元気娘がやってくるというので、
一族郎党集まっての宴会が準備されていたのだ。
母が会場に着くと、長男坊の兄弟たちが
「あれ、肝心の兄さんがいねえど」「どこさ行った?」
と、うろうろしていた。
ともあれ、みんなと長の無沙汰をわびたり挨拶をかわしていると、
長男坊があらわれた。
「あれ、どこさ行ってただよ?」
「いや、ちょっと」
「あれ、なんかこざっぱりしてねえか、兄さん」
「あぁ、久しぶりに初恋の人に会うだで、散髪にいっただね?」
わぁっと笑いが起き、今や80近い爺さんとなった長男坊は、
照れくさそうに苅りたての頭をかいた。
初恋の人か・・・・。

「そういえば、母さんは、まぁちゃんが嫁にきてくれたらなぁって言ってただよなぁ」
「あらぁ、そんなことあったんだ?
あはは、でも、どうせすぐ追ん出されてたわよ、私のことだから」
母が笑いとばすと、
「あぁ、そりゃ、その通りだ、違いねぇ」
と誰かがまぜかえし、宴会はいきなり盛り上がったのだとか。
母も相手の長男坊も伴侶をなくし、ふたりは、お雛様みたいに、
みんなのまえ、隣りどうしに並んですわらされたそうだ。
「なんだか、きまり悪かったわよ」
母は肩をすくめたけれど。

東北は今、本当に大変だと思う。
でも、いつか、なにもかも笑い話になる日が来るにちがいない。
母のように。思い出しては涙ぐむとしても。

どうか、日々が平安でありますよう。

手を合わせるとき、いつもはなにげなく口にしていた祈りの言葉が、
今は切なる願いとして、ここにある。

どうぞ、祈りがとどきますよう。

明日がよりよい日でありますよう。

作家
: 正本ノン
プロフィール
   
星座
: 水瓶座
血液型
: A 型

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第2・第4・第5土曜日、日曜日、祝日

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